○ご自身の人生を一言で表すなら
波乱万丈な挑戦者
○ 出生から学生時代のヒストリー
生まれも育ちもふらのです!(けっこう富川は地方からの移住者だと思われています)
昭和40年12月今はないですが富良野の林産婦人科で、富川幸栄さん(ミカド初代ママ)が母です。3歳の時に父の一存で千葉県に移住し小学3年生の時に富良野に戻ってきました。
千葉では父が生コンの打設会社を経営していた(本人が心臓弁膜症で生死をさまよう手術を受けて退職、実のお兄さんに会社を譲る)ので寮併設の我が家には背中に絵を描いた人がたくさんいて毎日のように遊んでもらった思い出があります。
幼いころは居るか居ないかわからないほどの子供で・・・ここにいなさい!と言われたら何時間でもじっとしていたという程ボーとしていた少年でした。
父が健康でいたならば当時、鹿島建設などの日本を代表する大手ゼネコンと組むくらいの会社を設立(富川土建㈱)していたので富良野にもラーメンにも携わらなかったのかとも思います。
富良野に帰ってきてから扇山小学校から東中学校、富良野高校(商業科)と野球少年でした。
父が病気で健康状態が悪く母が食堂を経営してましたのでいつも姉の弥生さんと2人でした。小学はエース、中学からは内野手で最後の高体連前に太股を肉離れ、旭川予選準決勝2点劣勢の9回1アウト満塁で代打富川!センター前ヒットをかっ飛ばしましたが2塁走者が本塁憤死。
僕たちの夏は終わりました。
野球で大成することはなかったのですがテレビで見たボクシングに憧れを持つようになり高3の秋から自己流でトレーニングをしていました。
「北の国から」で岩城滉一さんが演じる草太兄ちゃんがプロボクサーの設定でしたが少なからず影響を受けたかもしれませんね。
○仕事ヒストリー
富良野高校卒業後、プロボクサーになるため札幌(当時は札幌にしかボクシングジムがなかった)で働こうと思って全道47拠点あった北海道マツダ販売株式会社(昭和50年代までは富良野にもあった)に入社しました。がなんと第一希望の札幌勤務ではなく旭川永山店勤務と新入社員研修会で命ぜられ・・・呆然とし、この研修会で同期の先輩をかわいがってしまい(殴りました)入社2週間で永山店を去り(前代未聞とのこと)十勝 本別店で2年半勤務、腕や足に重りをつけて生活、朝はロードワークをしてボクサーになるために訓練を欠かさなかったですね。自動車整備士の資格を取得していざ札幌に。
札幌ではガソリンスタンドで働きながらボクシングジムに通いました。ガソリンスタンドではアルバイトでしたが車の知識がありましたのであらゆるキャンペーンで社員を押しのけ販売上位で貢献していたのか試合にはスタンドを3店舗臨時休業にして従業員全員で応援に来てくださいました(笑)今でもお付き合いはありますね。
ジムは当時できたばかりの元日本ミドル級チャンピオン赤坂義明氏が興した札幌ボクシングジム(のちに赤坂ボクシングジムに改名)に入門。朝はロードワークで5キロほど走りガソリンスタンドで働いた後18時ころから2時間半ほどの練習を毎日続けて翌年の春に行われたプロテストに合格(C級ライセンス4回戦)
翌月に開催されたジム開設1周年興行、今は無くなりましたが札幌 中島スポーツセンターでデビューしました。ジムの1期生、第一号のプロ選手でしたのでなんとセミファイナルでおまけにファイティング原田さんの解説で深夜ではありましたがテレビ放送(STV)でした。
もちろん相手を2回倒しての圧勝。その年は3連勝して翌年の初6回戦で1ラウンドで2回倒して破竹の4連勝、一気にA級ライセンス(10回戦)まで上り詰めたものでした。
ボクシングスタイルとしては距離を取って戦うボクサースタイルでしたが近い距離で殴り合うのも好きでしたね、北海道ではボクシングジムが2つしかないため相手が少なくいつも5階級も6階級も上のクラスとスパーリングしてましたので体格の大きい相手でもビビることはありませんでした。よけるのがうまくあまり相手のパンチを受けなかったと思います。
しかし派手に勝ち進んでいたようでしたが僕の実力はそこまで、けがもあり最後は脳波の乱れもあり引退。5年間の競技期間でしたが一度もダウンのないボクシング人生で終わることができました。
この格闘技、筋書きがありません、相手をぶっ倒せばよいのでリングの中では己の拳で相手を叩きのめすか!叩きのめされるか!だけです。
ボクシングをやったからこそ今の僕があるのだと思います。
命をかけた戦い、人生も競争の要素が多分ですので食うか食われるか!負けは死と同然と思って生きてきましたので何事にも真剣でした。
引退した時にラーメン店でお世話になっていたこともありこの道を選びました。
今度はラーメンのチャンピオンを目指し始めました。
ひとつの節目でしたので世界を見たくてLAに旅をしました。
ロスからサンフランシスコ、ベガスを回りました、やはりアメリカ、スケールが桁違い!男として生まれたからには世界に出たい!現在の行動につながっています。
思い立ったらすぐに走り始めるのが富川です。お世話になっていたラーメン店では基礎を学ばせていただきその後、28歳になったとき日本料理の牛肉専門店で3年間、料理の基礎を学ばせてもらいました。(ラーメン店を開業するために料理を覚えたかったのです)
その牛肉専門店では誰よりも早く誰よりも遅くまで仕事をしていたと思います。
ラーメンしか知らない自分でしたので毎日届く魚やお肉の扱いがわからなかったのです。
当時、料理の鉄人というテレビ番組が流行っていて料理番組が全盛だったと思いますが家では録画していたその料理番組を見ていたものでした。
毎朝入荷する鮮魚をさばき下処理をしてランチの準備を黙々とこなしながら料理人の力をつけていったものでした。働きを評価していただき1週間のご褒美をいただいた時には東京中のラーメンを食べたい希望を出し東京の中華料理店での修行と芝浦の食肉卸売市場に視察、休憩時間と修行先の終業時間にはラーメンを食べ歩かせていただきました。
退職するときには副社長の地位を用意するから退職しないでくれと・・・。
こちらの会社から毎年、今でもお中元とお歳暮が届くほど僕はこの会社を持ち上げたんでしょうね。
1997年7月10日 麓郷市街に山麓中華そば とみ川(現在は富良野とみ川)オープンしました。この地で作る昔ながらの中華そばをコンセプトに北海道小麦100%の自家製麺(保存料を使わない)、化学調味料を使わない、地元の素材を使う(さくら卵、玉ねぎ、にんじん、白菜、ジャガイモ、長ネギその他)大麓山の伏流水をスープにすることによりこの地でしか作れない中華そばができました。
創業から3年間は1日も休まず開業資金も順調に返済できたのも富良野市街から15キロも離れた麓郷の厳しい冬があったからです。しかし麓郷の方たち、昼は食堂、夜は居酒屋としての利用をしてくださり、1日二回来店下さる方も多くいらっしゃいました。
創業から今でこそよく聞く地産地消も当時のラーメン店では珍しかったと思います。増えつつある自家製麺、店舗で小麦を石臼で挽いたのも振り返ってみると素材を大事に扱いたかった表れで日本最初の取り組みでした。それもやはり富良野の顔の見える生産者からいただいたものだから。
富良野の飲食店で1番ふらの野菜をつかっている店舗(会社)だと思いますよ。
店舗としての転機は池袋の東武百貨店から北海道物産展の誘いを受けたときです。法人成りしました。1週間で700万円の売上、個人店としては信じられないものでした。
その後全国の百貨店はおろか大阪を皮切りに名古屋、青森、札幌とラーメンコンプレックスを渡り歩き全国知名度を上げてセカンドブランドの富川製麺所を2009年4月富良野市内に開店しました。
このお店のコンセプトは製麺所がはじめたラーメン屋として当初6種類(現在は4種類)の麺のなかから選んでいただくスタイルでしたが少し先を走りすぎでしたので現在の種類にしてこちらからのベストチョイススタイルとしました。
2015年6月 マルシェ2に煮干し出汁専門店 ゆきと花開店
マルシェ2のコンセプトは地元顧客の獲得ですので既存ブランドではなく地元客の好むテイスト店舗としました。
2016年12月には中国 上海 、2017年4月には新千歳空港にともに富良野の店舗としては初めての進出を果たしております。
上海では1年8か月の駐在で4店舗開業させ現在は1店舗の営業となっていますが月に1週間程度の出張ベースでの運営で現地ナショナルスタッフに頑張ってもらっています。
新千歳空港店は保安検査を過ぎた先の北海道食堂の中にあり北海道で食べられる最後のラーメン屋として味噌ラーメンメインの富川製麺所が富良野の代表を務めさせていただき外貨を稼ぎ富良野市に納税させていただいております。
以上が僕のラーメン事業の遍歴ですが・・・忘れてはいけないのが2010年4月、富良野市中心市街地活性化の本丸事業フラノマルシェ なまら棒の出店でした。
長さ33センチの手に持って食べる餃子がコンセプト。
オープンからしばらくは来場の3人に1人が食べるフラノマルシェ躍進の看板商品として貢献、1日最高2800本、1年間で10万本を売り上げました。
あ!余談ですが富良野とみ川は2012、2017のミシュラン北海道ビブグルマン連続受賞です。
2017版には開店したばかりのゆきと花も掲載されてます。
2010年に第2回東京ラーメンショーに石臼挽き中華そばを持っていきましたら関東の著名なラーメン店主が食べに来ました。
翌年宅配ラーメンオブザイヤー醤油部門で全国1位を受賞したものです。
○ 人生のヒストリー
趣味は 自らを高めることができるので芸を極めた人との交流を大切にしています。
ありがたいことに富良野では機会がたくさんあり感謝しております。
上海での1年8か月は日本では考えられないこともたくさん経験しましたがこれまでの人生の中でも最高にスリリングな瞬間でした。
上海初の日本ラーメンテーマパークで全国の7店舗が招集されましたが現在残っている(テーマパークは2年6か月で廃店)店舗は北海道富川(上海での屋号)うちだけとなり海外進出は誰でもできます、継続が困難ということをわかっていただけると思います。
僕は商売に関しては成功することしか手を出しません。もちろん上海進出もそうです。
ありとあらゆるデータを研究し、あらゆる想定をしたうえ、正攻法で臨みました。
困難を極めることに臨むときに奇襲は効果が薄いと思っています、何故なら1度は成功しても2度は無いからです。言葉の壁は実戦で覚えていきました。通訳もほとんどつけないでも男の背中は語ってくれます(笑)。
日本も中国も損益の中身が大事で収入を大きく費用を少なくして利益を上げる。
朝から晩までスタッフとともに汗を流して働き一緒に飯を食い酒を飲み交わしました。
中国人スタッフに日本人の経営する堅実なラーメン経営を見せたから今があると思っています。
うちのスタッフの中に水や電気の浪費、食材を粗末に扱う人はいません。
日本人以上にまじめで真剣に仕事に従事するスタッフに恵まれましたし育ってくれました。
特技は 月並みですが誰とでも仲良くなれることです。
一緒には住んでいませんが25歳と大学4年生の息子が札幌にいます、現在は2人とも私の事業に興味がないようですが将来は振り向いてくれるのではないかとも思いますが人生どれだけ自由に生きていけるかが大切だと思いますので強制はしたことがありません。
彼らは僕の息子ですので今後の活躍に期待しています。
○ 未来のヒストリー
富良野と中国テンセント社の連携事業を推進させ中国からのお客様を誘客することが直近の私の使命だと思っています。世界のトップ企業との連携!ワクワクします。
そんなことをしながら多分ずっとラーメンにかかわって生きていくと思います。
一緒に働く仲間を幸せにしたいし僕にかかわる人と向上心を持って生きていきたい。
地域を大切に、地域を豊かに、社会貢献のできる会社にすることを心掛けています。